ストア派における「無関心なもの(アディアフォラ)」の理解:真の価値と偽りの価値を見分ける知恵
現代社会と価値観の探求
私たちは日々の生活の中で、様々なものに価値を見出し、それを追求しようとします。富、健康、評判、成功など、社会的に高く評価されるものに価値があると感じ、それを得ようと努力することは自然なことです。しかし、それらを手に入れたとしても、必ずしも深い満足感や心の平穏が得られるとは限りません。むしろ、それらを失うことへの恐れや、比較から生まれる不満に苦しむことも少なくありません。
人生における真の価値とは一体何なのでしょうか。そして、何に価値を置き、何を追求すべきかという問いは、多くの人が深く考えたいテーマです。ストア派哲学は、この問いに対して明確な答えを持っています。それが、「無関心なもの」(アディアフォラ、adiaphora)という概念の理解です。
ストア派における「アディアフォラ」とは何か
ストア派哲学は、この世界のあらゆるものを「善」「悪」「アディアフォラ(無関心なもの)」の三つに分類しました。
- 善: ストア派にとって唯一の善は「徳(アレテー)」です。理性に基づいた正しい判断、公正さ、勇気、節制といった内面的な性質や、それに基づいた行為こそが真の善であると考えられます。これらは私たちの内側にあり、私たち自身が制御できるものです。
- 悪: 唯一の悪は「徳の欠如」です。無知、不正、臆病、放蕩といった徳に反する内面的な性質や行為がこれにあたります。これもまた私たちの内側にあり、私たち自身が制御できるものです。
- アディアフォラ(無関心なもの): 善でも悪でもない全てのものがアディアフォラに分類されます。富、健康、名声、美貌、社会的地位、さらには貧困、病気、悪評、死なども含まれます。これらは私たちの外側にあり、私たち自身が完全に制御することはできません。
アディアフォラは、それ自体が善であるか悪であるかを決定づけるものではありません。例えば、富はそれ自体が善ではありませんし、貧困もそれ自体が悪ではありません。これらは、徳を実践するための「材料」や「状況」として使用されるに過ぎないからです。
なぜ「無関心」である必要があるのか
ストア派がアディアフォラに対して「無関心」であるべきだと説くのは、これらのものが私たちの心の平穏や幸福に直接的に影響を与えるものではないと考えるからです。アディアフォラは私たちの制御下にはありません。私たちがどんなに努力しても、健康を完全に保証することはできませんし、富を永遠に保持することもできません。評判は他者の意見に左右されます。
もし私たちが、制御できないアディアフォラに価値を見出し、それに固執したり、失うことを恐れたりすれば、常に外部の状況に心を乱されることになります。それは心の平穏を損ない、不安や苦悩の原因となります。
ストア派が目指す心の状態である「アパテイア(不動心)」は、感情そのものを否定するものではなく、アディアフォラへの過度な執着や、制御できない出来事によって心が掻き乱されることのない状態を指します。アディアフォラに対して「無関心」であることは、まさにこのアパテイアを達成し、心の平穏を保つために不可欠な考え方なのです。
「選好されるアディアフォラ」と「選好されないアディアフォラ」
アディアフォラは善でも悪でもないと分類されますが、ストア派はアディアフォラの中に「選好されるもの」(preferred indifferents)と「選好されないもの」(dispreferred indifferents)があることを認めます。
- 選好されるアディアフォラ: 健康、富、良い評判、友人を持つことなど。これらは徳を実践する上で、より望ましい状況や材料を提供しやすいと考えられます。例えば、健康であれば、より積極的に人助けをしたり、学びを深めたりすることが可能です。
- 選好されないアディアフォラ: 病気、貧困、悪い評判、孤独など。これらは徳の実践を難しくする場合があると考えられます。
しかし、重要なのは、これらが「善」であると見なされるわけではないということです。選好されるアディアフォラは、状況が許す限り自然に選択するべきものですが、それに固執したり、それが得られない場合に心を乱したりしてはなりません。たとえ選好されない状況にあっても、私たちは徳を実践することができます。貧困の中でも正直であること、病苦の中でも勇気を持つことなどです。
ストア派は、徳こそが唯一絶対の善であり、アディアフォラは徳の達成や実践のための道具や環境に過ぎないと説きました。私たちは、アディアフォラそのものではなく、アディアフォラをどのように扱うかという点に徳が現れると考えたのです。
真の価値は「徳」にある
ストア派哲学の中心的な教えは、「徳(アレテー)」こそが人生における唯一の真の善であり、幸福(エウダイモニア)は徳のある生き方から自然に生まれる結果であるというものです。
私たちが完全に制御できるのは、私たちの判断、意欲、そして徳に基づいて行動するかどうかだけです。富や健康、他者からの評価といったアディアフォラは、私たちがどれだけ望んでも保証されるものではありません。
したがって、ストア派は、真の価値を外的なアディアフォラではなく、内的な徳に見出すことを勧めます。目の前の状況(アディアフォラ)がどのようなものであれ、そこで理性的に、公正に、勇気を持って、節度ある行動をとることにこそ、私たちの価値と幸福があると考えるのです。
アディアフォラの理解を現代生活に応用する
ストア派のアディアフォラの概念は、現代の私たちにも大いに役立ちます。情報過多で比較が容易な現代において、私たちは他者の持つアディアフォラ(SNSでの「充実した生活」、経済的な成功、華やかなキャリアなど)に目を奪われ、自身の状況(アディアフォラ)と比較して一喜一憂しがちです。
アディアフォラの概念を理解し実践することは、こうした外的なものに心を囚われず、内面の徳に焦点を当てる助けとなります。
- 何が本当に重要かを見極める: 自分自身や他者の価値を、所有物や社会的地位といったアディアフォラではなく、内面の徳や行動の質に見出すように心がけます。
- 制御できないものに動じない: 健康の悪化、予期せぬ経済的損失、他者からの不当な批判など、制御できない「選好されないアディアフォラ」に直面したとき、それに過度に心を乱されるのではなく、その状況下で最善を尽くすこと(つまり徳を実践すること)に集中します。
- 選好されるものを賢く利用する: 健康や富といった「選好されるアディアフォラ」を得た際には、それを自己満足のためではなく、徳を高めたり、他者を助けたりするために利用することを考えます。ただし、それらを失うことを恐れない姿勢を保ちます。
- 日々の判断を徳に基づいて行う: どのような状況であっても、アディアフォラを得ることや避けること自体を目的とするのではなく、理性に基づき、公正で、勇気ある、節度ある判断を下すことを最優先します。
結び
ストア派哲学が説くアディアフォラの概念は、私たちが何に価値を置くべきか、そして何に心を乱されるべきではないかという重要な示唆を与えてくれます。富や健康といった外的なものは、それ自体では善でも悪でもない「無関心なもの」であり、真の価値は私たち自身の内にある徳にこそ存在します。
このストア派の知恵を学ぶことは、変化の激しい現代において、外的な出来事に左右されずに心の平穏を保ち、真の意味で満たされた人生を築くための一歩となるでしょう。アディアフォラを正しく理解し、日々の生活の中で徳の実践に努めることが、心の平穏と幸福への確かな道筋となります。