ストア派の心の予防策:困難を予期するプレメディタティオ・マロルムとその実践
現代社会における不確実性と心の備え
現代社会は、予測困難な出来事や変化に満ちています。将来に対する漠然とした不安、予期せぬ困難に直面した際の動揺は、多くの人が経験することです。こうした状況下で、いかに心の平穏を保ち、冷静に対処していくかは、私たちの幸福にとって重要な課題と言えます。
古代ストア派哲学は、まさにこのような課題に対して、具体的な「心の訓練法」を提供しています。その一つが、「プレメディタティオ・マロルム(praemeditatio malorum)」と呼ばれる実践です。これは、「困難の予期」あるいは「不幸の予習」と訳されることがあります。一見すると悲観的な訓練のように思えるかもしれませんが、その真の目的は、心の不動心を築き、不測の事態に直面しても動揺しない強さを養うことにあります。
プレメディタティオ・マロルムとは何か?
プレメディタティオ・マロルムは、セネカをはじめとするストア派の思想家たちが推奨した心の訓練法です。その核心は、起こりうる困難や不幸な出来事を、実際に起こる前に心の中で具体的に想定することにあります。
例えば、大切なものを失う可能性、病気になる可能性、仕事で失敗する可能性、人間関係で衝突する可能性など、人生で起こりうる様々な困難なシナリオを、現実のものとして心の中で受け止めます。
しかし、この実践は単にネガティブな思考に耽ることではありません。その目的は、以下の二つに集約されます。
- 心のショックを和らげる: 実際に困難が起こった際に、突然の出来事による心の動揺や混乱を軽減し、冷静さを保つ助けとなります。事前に想定していることで、事態に対する心の準備ができている状態を作ります。
- 今あるものへの感謝を深める: 想定した困難と比較することで、今自分が持っているもの(健康、大切な人、安定した状況など)が当たり前ではないことに気づき、それらに対する感謝の念を深めることができます。これは、偽りの価値観に囚われず、真に価値あるものを見極めるストア派の教えとも関連します。
ストア派がこの訓練を重視したのは、彼らが「制御できるものとできないものの区別」を重要視していたからです。私たちに制御できない出来事(病気、他者の行動、自然災害など)は必ず起こりえます。これらの出来事そのものを制御することはできませんが、それに対する私たちの心の反応は制御可能です。プレメディタティオ・マロルムは、制御できない出来事に対する心の反応を事前に訓練するための方法なのです。
ストア派哲学におけるプレメディタティオ・マロルムの位置づけ
プレメディタティオ・マロルムは、ストア派の倫理学における「徳(アレテー)」の追求と深く結びついています。ストア派にとって、人生の最高善は外的な状況ではなく、私たち自身の内なる理性(ロゴス)に従った生き方、すなわち徳のある生き方そのものです。
困難な状況に直面した際に、怒り、恐れ、悲しみといった感情に流されず、理性に基づいて正しい判断を行い、自らの義務(カセーコン)を果たすためには、心の不動心(アパテイア)が必要です。プレメディタティオ・マロルムは、この不動心を養うための具体的なエクササイズとして機能します。
セネカは特にこの訓練を推奨しました。彼は、富や地位といった外的なものがどれほど脆く、簡単に失われうるかを強調し、そうした喪失に対する心の準備を怠らないよう説きました。これは、富や地位を軽蔑することではなく、それらに過度に依存せず、失っても心の平穏を失わないための知恵です。
プレメディタティオ・マロルムの具体的な実践方法
この訓練に決まった形式はありませんが、いくつかの方法が考えられます。
- 朝の瞑想: 一日の始まりに、その日に起こりうる小さな不都合(電車の遅延、予期せぬタスク、他者からの批判など)や、さらに大きな将来の困難を心の中で想定してみます。そして、もしそれが起こった場合に、自分はどのように反応し、どのように行動すべきかを理性的に考えます。
- 夜の反省: 一日の終わりに、起こった出来事の中で困難だったことや、もし明日困難が起こるとしたらどんなことかを考えます。そして、ストア派の教え(制御できること/できないことの区別、徳に従うこと)に基づいて、どのように対処するのが最善かを反省的に検討します。
- 書き出し: ノートやジャーナルに、起こりうる困難なシナリオを具体的に書き出し、それに対する自分の心の反応や、ストア派的な対処法(制御できないものとして受け入れる、理性的に判断する、義務を果たすなど)を記述してみるのも効果的です。
- 貧困や困難を模倣する: セネカは、時折意図的に質素な生活を送り、貧困を模倣することを勧めました。これは、普段当たり前だと思っている快適さや物質的なものがなくても生きていけるということを体感し、それらを失うことへの恐れを軽減するためです。
これらの実践を通じて、困難な状況を単なる感情的な苦痛としてではなく、ストア派の徳を実践する機会、理性を行使する機会として捉える視点を養うことができます。
実践の効果と現代への応用
プレメディタティオ・マロルムの実践は、以下のような効果をもたらすことが期待できます。
- レジリエンスの向上: 困難に対する心の準備ができるため、実際に問題に直面した際の立ち直る力(レジリエンス)が高まります。
- 不安の軽減: 不安の多くは未知のものや制御できないものに対する恐れから生じます。起こりうる最悪のシナリオを想定し、それに対する心の準備をすることで、漠然とした不安を具体的な対処すべき課題として捉え直し、軽減することができます。
- 今ここへの集中: 将来の不安に囚われず、今自分が制御できることに集中する助けとなります。
- 価値観の明確化: 何が本当に重要で、何がそうでないか(アディアフォラ)を見極める力が養われます。外的なものに心の平穏を依存させなくなります。
この訓練は、現代の私たちが直面する様々な課題に応用できます。例えば、キャリアの不確実性、経済的な変動、健康問題、人間関係のトラブルなど、人生には常に予測不可能な要素が伴います。プレメディタティオ・マロルムを日々の習慣に取り入れることで、これらの課題に対して感情的に打ちのめされるのではなく、冷静に、そしてストア派的な徳をもって向き合う心の準備をすることができます。
まとめ
ストア派哲学におけるプレメディタティオ・マロルムは、単なる悲観論や心配性とは異なります。これは、人生に避けられない困難や不幸を理性的に予期することで、心の動揺を防ぎ、いかなる状況下でも自らの理性と徳を保つための積極的な心の訓練です。
この実践を通じて、私たちは制御できない外部の出来事に一喜一憂することなく、自分自身の内なる状態、すなわち判断や意図といった制御可能な領域に意識を集中できるようになります。それは、心の平穏を外的な状況に委ねるのではなく、自らの内側に確立していくための、力強い一歩となるでしょう。
日々の生活の中で小さな困難から想定し、徐々に大きな事柄へと広げていくことで、不測の事態に対する心の備えを着実に築き上げることができます。プレメディタティオ・マロルムは、困難な時代を生きる私たちにとって、心の平穏と幸福を見つけるための一つの重要な羅針盤となり得るのです。